コンピューティングに対する我々の意識は、わずか数年で激変した。PC時代のコンピューティングのための画面は横長(英語ではLandscape)が中心だったが、モバイル時代となった現代では縦長(英語ではPortrait)が中心だ。また、Facebookは1年以上の時間をかけて検討した結果、モバイルアプリにおいてタイムライン上の写真や動画の表示面積を大きくした。このわずかな違いを小さく感じるか、大きく感じるかで、Webデザインやアプリケーション制作者としての適正がわかる。
映画「プラダを着た悪魔」では、硬派ジャーナリスト志望のヒロインであるアンディが、文芸誌で働くための足がかりとして、超一流ファッション誌の名物編集長のアシスタント職を得ることからはじまる。アンディは安物の服を着ていることになんの恥じらいもないが、周囲は彼女の出で立ちを嘲笑うというよりも、その無神経さに苛立っている。アンディの無知と無恥が、自分たちの業界全体の存在意義をおとしめていると感じるからだ。
モバイル時代となり、我々のコンピューティング体験は縦へのスクロールのみでスワイプのような新しい動きに対応する必要が生じた。また、小さい画面だからといってフォントサイズや画像サイズを変えるユーザーは少なく、あらかじめ最適なサイズ感を制作者が考えて用意しなければならない。
つまり、PC時代にはユーザーがカスタマイズして利用する余地があればよかったが、モバイル時代の現在は制作者側みずからが最適なUI/UXやデザインを提供する必要があるわけだ。
GunosyやSmartNewsなどのキュレーションアプリの台頭をみてもわかるが、モバイル時代ではひと昔前の雑誌の世界と同じく、注意深く取捨選択された編集済みの情報を一方的に受け入れるユーザーが再び増えている。
サイズ感もコンテンツも、最良と感じさせてくれるのであれば、お仕着せのほうがよい。プラダを着た悪魔では「ランウェイ」という雑誌(モデルとなっているのは「Vogue」といわれている)がその役目をはたし、世界中の女性のファッションのビーコンとなるが、ニュースアプリでは関心があるであろうニュースをキュレートするアルゴリズムがその役割をはたす。
なんでも提供してユーザーの選択に任せるという手法はPC時代にはよかったが、モバイル時代になって小さい画面でインターネットを利用する層にはめんどうなだけだ。しかも、クールではない情報やデザインしか提供できないWebサイトやアプリケーションは、すぐに使われなくなる。モバイル時代のユーザーは、自身で環境を良くしようとはせず、良いモノを提供しているサービスを見極めようとするわけだ。クールなものを選ぶ目が進化しているといえよう。
スマートフォンが普及し、モバイル時代のユーザーが急増していることで、優秀なエディターの需要が一気に増えてきている気がしている。そのエディターとは人間である場合もあるし、高度にプログラムされたアルゴリズムである場合もある。
いずれにしても、スマートフォン中心のUIでは、制作者側が最初から最適化したUI/UXやデザインを提供することに意味がある。つまり、制作者側のセンスがますます問われる時代になったのだ。