子供の頃は砂遊びがキライだった。爪に砂が入り、黒ずむのが嫌だし、なんとなくべたつくのがまた嫌いだった。
自分が特に神経質であるとは思わないが、気になるものは気になる。こればかりはしょうがない。未だに素手でベタつくお菓子やパンなどを掴むのは嫌いだ。
理由なく気になる、そういう感覚的なモノは意外に自分のセンスと直結する”癖”だ。
たとえば、いま、僕はネットサービスやアプリなどの開発に関わる仕事をしているわけだが、コンテンツとコンテンツのスペースの広さや狭さに非常にこだわる。形や色もさることながら、スペースの取り方、間隔の在り方が最も気になるのだ。間隔=感覚、である。
たとえば、いま、僕はネットサービスやアプリなどの開発に関わる仕事をしているわけだが、コンテンツとコンテンツのスペースの広さや狭さに非常にこだわる。形や色もさることながら、スペースの取り方、間隔の在り方が最も気になるのだ。間隔=感覚、である。
特にスマートフォン全盛時代とあって、最近ではフォントの大きさとスペースの取り方の間隔、それがとても重要に思っている。論理的にも、人間工学上から言ってそういうコンテンツのサイズと、間隔は読みやすさに直結すると思うが、自分の感覚としてそれらが自分の好みに合わないと気持ち悪く感じるのだ。
気持ちよく感じる、気持ち悪く感じるというのは、あくまで感覚的なものだが、前述のようにそれこそがセンス、というものである。そのセンスが結果的に万人の美意識に即したものであれば、センスが良い、ということになるし、外れていればセンスが悪い、ということになる。つまり、センスとは、自分のセンスが顕在化しているかどうかという問題と、それが生み出す結果が良いか悪いかという双方の関係性によって評価されるということになるのだ。